昭和48年03月27日 朝の御理解



 信心乃心得 一、
 「神は声もなし、かたちも見えず。疑わば限りなし。恐るべし疑いを去れよ。」

 神様は声も形もありますけれども、余りに大きな声で、余りに大きなお姿であるから私共には分からない。いわば地球が回転しておる回転音というものはそれはすさまじいとかと云う様な、言葉では表現出来ないすさまじい。回転音というものがあっておるのだけれども、余りに大きいから聞こえないだけの事。ですから私共はそういう神様の声も又は姿も見ることは出来ませんけれども、その神様の働きを感じ取らせて頂くことが出来るのが信心。神様の働きを信じ取らせて貰う。
 それを神の絶対愛、神様の絶対の愛というものを私共が感じる。それは私共のどの様なものでありましても、人間でありましてもそれを受けて受けて受け抜いて下さるそういう働きをして下さる。そこで私共がその神様の働きをです、受けて受けて受け抜いてゆくと云う姿勢をとらせて頂くところから、いわゆる神様の絶対愛である事を確信させて頂くことが出来るようになって来る。
 神様の受けて受けて受け抜いて下さる働き、私共もそれで又受けて受けて受け抜く働きをさせて頂くことに依ってです、神様の絶対愛、いわゆる和賀心の和とか、喜びの心と云うのはそこから生まれて来るものが本当のものである。いわゆる神ながらな神様のお繰合わせ、おかげの中に住まわせて頂くことが出来ておるという実感の中に日々生活させて貰う。まあ大変難しいですね。それを自然放任ともいう。
 昨夜土居の共励会でございました。十二時過ぎて皆さん帰って見えました。それでここでお取次させて頂いた訳ですけれども、久富勇さんが一緒にお礼に見えておりました。それで御自分と奥さんのお届けをされて、実は今日は家内が腹を痛んで休んでおります。こちらへお礼に出らせて頂く時に、只今神様からお知らせを頂いたと「親先生のお取次を頂け」と頂いた。それでどうぞおかげ頂きますようにと言う事でございました。
 神様が久富くにかという一婦人に親先生のお取次を頂けと例えばお夢の中にでもお知らせ下さる。それをもういつもの私なら絶対お広前に出て来ておりません。もう寝ております。そんなに遅うは、ところが夕べだけは私はお広前で御用させて貰うておった。まあその時に思うのですねえ、本当に神様の間違い無いお働きを。私が神様からお知らせを頂いてここへ出て来ておったというのならともかく、そんなこつじゃないです。私は神様の働きというものはね、そういう場合にいつも感じずにはおられません。
 いや、そういう意味に於てです、合楽では本当に神様の働きをまのあたりに見せて頂く。又これが神の声だろうかと思うような声を聞かせて頂く。いわゆる神の働きをそこに感じることが出来る。だから合楽で打ち込んだ信心させて頂けば、もう疑おうにも疑う余地が無い程しのおかげと云うことになってくると思うのです。そしてその次に、これは今朝私が頂いたお夢ですけれどもというてお届けされるのに、召集令が来とる。
 ところが体がこんなに悪いから、そしたら何処何処温泉で、ゆっくり湯治でもして来いと言う様なことであった。そこには或幹部の信者がおられたと。人間というものはね、少し楽になって来ると、のど元通れば熱さ忘れるで、必ず信心がにぶくなってきますね。いうなら信心がいわば、落ちて来るわけです。ですから、今例えば久富勇さんあたりの様に、昨夜もああして、遅うお礼に出てきておられるが、今朝もああして、朝早うから参ってきておられる。
 そんならお兄さんの繁雄さんは一緒に昨日お参りしてお礼に出て来ておられるけれども、今日はお参りがあってない。片一方は今楽な所を通っておられる。こげなおかげ頂いてよかじゃろうかと、家族で話すという程しのおかげを受けておられる。勇さんは今体の上にも経済の上にも、もうそれこそ大修行をしておられる時だからそれが出来るんです。そこで勇さん、そんならどういう楽なおかげになってきても、そんなら経済の上にも楽になり、体の上にも健康になって楽になるというおかげを頂いてもです。
 信心を落とさんで済むだけの信心を今こそ頂いておかなければならない時だなというお知らせですよと。温泉に先に行っておられた方は、ある人でもうやれやれというおかげを受けておる人。ですからその人はお風呂にども成程温泉に行っていけないのじゃない。けれども例えば召集を受けると言う事は、もうこれは事情は許されない。どんな事があってもどんなに可愛い妻子がおっても、それをやっぱり振り捨てて、どんな商売しよりますからまだ途中ですからというたってそんな訳にはいけんのが召集令状。
 ですから信心というのは召集令状を受けた様な気持ちでという発心が要るのです。そこでです、そんなら私共は人間楽になって来ると、いわば信心が疎かになる。そこでね、私達はその信心を頂くことがどの様に素晴らしい事かという味わい、お徳を受けて行くということがどんなに有難い事かという味わいをです、その修行中の時にひとつ本気で頂いておかなければ、参らなければならんのではない、参らなければおられないという信心。御用しなければならんのじゃない、御用させて貰らわなければおられない信心を本気で修行中の時に真から受けておかなければならないと言う事になる。
 だから神様は本当いうたら誓わせたいところ、ここで体が楽になっても経済のおかげを頂いても、もう決して信心を緩めたりすることは致しませんと誓わせたいところだけれども、誓うとっても破るのですから、人間というのは誓うとる位の事じゃでけん。おかげを頂いておるうちに信心を分からせて貰い、信心が身についてきて、信心が育つと言う事。力を受けると言う事。
 お徳を受けて行くと言う事がこの様にも素晴らしい事か、その素晴らしいことを頂けれると言う事がです、身についてきたら、もう参るなと言われても、どんなに楽になれば楽になる程、おかげを頂けば頂く程お参りしなければならなくなって来るというのが、私は本当の信心だと思うです。だから勇さん、そういう事を求めておられるのですよというて昨夜お話したことです。
 私は今朝方からお夢を頂いておった。それは私がまあだ酒屋の番頭をしておった頃のお酒屋さんなんです。一人の人がお酒を飲みに入って来た。ところが先客があってその人もお酒を頂いておった。私は裏の方で徳利を洗うたりしよった。それで入って来たのを私は見ておった。ところがその酒飲みに入って来た風をしたその人がです、前に飲みよった人にピストルを突きつけてですね、何か言ってるんです。
私は裏の方でびっくりしましてからね、これはどげな風にしてから警察に知らせようかと思うけれども、裏の方から抜け道はないしどうしようかと思い乍らです、ポンプをガチャガチャ突きながらごまかしている訳ですね。そして思わせて頂いたことは「はぁこれは神様にお願いするより他にはない」と思うてから。ポンプをガチャガチャ突きながら生神金光大神様、生神金光大神様と云うてお祈りをさせて頂いておる。
 そしたらそのピストルを突きつけておった人がパーッと表へ飛び出して逃げだしたら、もうそこには沢山の警察の方達がですねえ、身ごしらえをして、そのピストルを持った人を追うて行くところで眼が覚めた。どう言う事であろうかと、まあ酒屋であると言う事は、ははあこれは有難き、勿体なきを頂きに来るとじゃから、まあ教会と言う事になるだろう。いうなら私は神様の番頭だから。私が番頭だと言う事であろう。
 それにそのピストルを突きつけられておると言う事はどう言う事であろうか。昨日も綾部さんのお導きでというて甘木から婦人の方が参って見えられた。初めて参って来られたので一生懸命そこで御祈念しておられたところが、「先生、不思議なことがございました」というて、それがね、断崖絶壁の様な所に自分が立っておる。前の方は広おい海で向こうの方から一隻の舟がこちらへやって来る。と言う様なそんなものを頂きましたというてお届けされるんです。
 だから今日のあなたのそんなら断崖絶壁に立っておられるように、一つの岐路に立っておられる時である。まあいうならピストル突きつけられておられるような状態の時なんだ。まあ番頭さんの私がです、もう警察の知らせとか、私がそれをとっちめてやったり、私がしてやると言う事で出来る事じゃない。もう私はね、もう兎に角神様に願い縋って差し上げる以外にないと言う事です。
 私は今朝のお知らせを頂いてから、もう一つ本当にお取次者としての、時の心がけと云った様なものを教えられたような気がしたのですけれども。それからお夢から覚めてから又ウトウトしよったら、今度は丁度田舎のお芝居の時の舞台のような所に一人の立派な紳士が立っておられましてね、「私が先ほどのピストルでした俳優でございます」と言われる。そして悪人のように扮装しておっただけである。そして実はこのピストルはおもちゃのピストルですというてこう見せる訳です。
 私共はね、信心させて頂くものが本当に分からなければならない事はね、信心させて頂きよって怖いとか、困ったと言う様な事は絶対にある筈はないと言う事。それは私共心の迷いが困ったと思うたり、怖いと見ておるだけの事。有るものは、いわゆる神の絶対愛だけしかないと言う事。そこでそんなら取次のその番頭さんがですよ、もうこれ自身が、さあどうするのというてから、怖がったらもうおかげは頂かれんと言う事が分かります。只神様にお縋がりするだけしかない。そこに神様の働きというものがある。
 そこにお互いがです、神の働きを、だんだん頂き感じさせて頂くうちに、疑おうにも疑う余地が無い程しの、おかげになってくる。声はなくても姿は見えなくても、神様の絶対愛というものを、段々感じれれるようになってくる。そこからです、いうならば必要なものは必要に応じて全てのことが成就してくる。いわゆる自然放任である。そういう天地の中には働きがある。その働きをキャッチし得るものは、真の信心をしえたものだけしか頂けないと言う事。
 神様は人間総氏子の上の事を御守護お守り下さってあるけれども、そういう必要なものが必要に応じて頂けれる程しの心はいつも安らいで、和らぎ賀ぶ心いっぱいで安心しておれれると言う事。いうならば信心させて頂く者は丁度蚊のいっぱいおる所に蚊帳をひいて蚊帳の中に入っておる様なもの。ですから信心という蚊帳の中に入っておるから煩わしさというものがない。
 そんなら蚊帳の中に入っておるから困った事はないかというと有るけれどもです、それは絶対神の愛として受けれる心が出来ておる。だから煩わしいジカジカする思いをせんで済む。まあ信心のそういう最高の所のね、おかげをお互いが目指させて頂くと言う事。そこに初めてです、神様の絶対愛を絶対愛として信じれれる。その為には私共がです、私共の行く手には怖い事はない、困ったと言う様な事があろう筈が無い。
 困った怖いと思うておるのは私の心の迷いであるという頂き方をさせて貰うて、兎に角頂いて頂いて頂く抜くという生き方。神様の御働きとしてそれを頂き抜かせて頂くという生き方を身につけて行く事。そこにです、受けて受けて受け抜いて下さる神様と、受けて受けて受け抜いて行く私共の生き方がです、一つになって現れて来る。ここでは恐るべし、疑いを去れよと仰るがです、それを信じたら恐るべしという程しのおかげを体認し体験して、いわゆるおかげを表して行く事が出来るというお道なんです。
 金光様の御信心はだからその過程に於てです、久富勇さんが頂いておられますようにです、私共は信心の姿勢というものを、これはもう絶対のもの、召集令状が来たならばもう理屈は言うておれないという、そういう見地に立たせて貰う。そしてそんならおかげを頂いてです、いうなら健康の上にも経済の上にもおかげを段々頂いて参りますとです、人間はそこに、いうならば堕落というか堕落をする内容を持っておる。
 その証拠にはこの人が、ちょっとおかげを頂いたなら、もうちゃんと温泉にでも浸っておると言う様な事で、なってしまう様な事ではおかげにならん。そこで例えどの様なそんならおかげ頂いても、楽にならせて頂いても信心だけは落としません、いや落とされはしませんというものをです、私共が極めて頂いていかなければならん。それはそんなら神様に誓うてから苦しい時の神頼みで、それこそ笑い話じゃないですけれども、奥さんがお産をしだした。
 そら苦しみだしたけんで御神前にお燈明上げてから一生懸命親父さんが拝んだ。そして拝みながら、どうぞ安産させて下さい。安産のおかげ頂いたら、もうそれこそ千の燈楼でもお供えするごと言うて拝みござった。それから嫁御さんが苦しみながら、ちょいとちょいとあなた、そげなこつ言うちからと言ったと「今神様をだまくらかしよるところじゃけん、早う産め」と言うた。もう神様にゃすらごと言うたっちゃよかごと思うとる。だから誓うた位の事では必ず嘘になるから。
 例え誓うてはおらんでも信心はもう限りなく進めて進めて進めて行かなければおられないもの。お参りはさせて貰わなければおられないもの。御用はさせて貰わなければおられないものというそこをです、私は身につけて行くと言う事が、これはもう限りなくお徳を受けて行く道ですから、そこからいよいよ恐るべし、疑いを去れよと仰るが疑う余地もない程しのそうい信心が出来たときに、恐るべしという程しのおかげが頂けれると言う事を聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。